そゞろごと

noli me legere

室内装飾について

人間の生活の基本といわれる衣食住。このうち衣はほぼ完全に欧化された。食はまあ和食と洋食(中華もふくむ)が半々くらいか。米が主食である以上、完全な欧化はまず無理だろう。で、住はといえば、これが微妙なのである。オフィスがほとんど洋風なのは当然として、人々がふだん住んでいる家。これを洋風と見るか、和風と見るか。

いまではフローリングの家も珍しくなくなって、畳の間がひとつもない家も少なくないだろう。しかし、玄関があってそこで靴を脱ぐという習慣がある以上、純粋に洋風とはいえない気がする。ぎりぎり洋風に寄り添ったところで、やはり和洋折衷様式から抜け出すことはできないだろう。

ところで、和風の家と洋風の家とのいちばんの違いは何かといえば、前者はそのまま床に座ったり寝そべったりできるが、後者は家具がないと座ることも寝ることもできない、という点にある。洋風の生活は、基本的にすべてが宙に浮いている。家具にしても、椅子やベッドのみならず箪笥や戸棚にまで脚がついていて、日本のそれらのように床にどっしりと密着したのは少ない。

この、生活空間が床から数センチなりとも浮上している点が、洋風の住まいの特色だといえるように思うのだが、どうか。

さて、そうやって床からすべてのものが距離を置いて浮上しているから、当然のことながら天井が高くなる。板敷きであることと、天井が高いこと。この二つの条件が、洋風の家具のたたずまいを決定づけているのである。

洋風の家具は魅力的なのが多い。たんにわれわれにとって物珍しいから、というだけでなく、造形的にもすぐれているように思う。この造形美はもちろん古代のギリシャの様式にさかのぼることができるが、それは一口にいえば、曲線を重視するということだ。和風の家具は基本的に直線主体の方形である。いっぽう洋風の家具は、やむをえず方形に近づく場合であっても、どこかに曲線的な要素がみえる。あえていえば曲線こそが、ギリシャに端を発する西洋的美学の根本的要素なのである。

だから、こういった純ヨーロッパ的な家具を日本の家屋にもちこむと、なんともいえない不調和が生じる。まるでちょんまげを結って下駄をはきながら洋服を着ているようなチグハグさだ。畳の部屋にロココ調の椅子を置いて、それで満足していられるのは、よほど美的感覚に欠陥のある人だろう。ふつうの感覚の持主なら、その不調和がひきおこす軋みに耐えられないはずだ。

というわけで、純ヨーロッパのものは日本の家屋に導入するにはリスクが高すぎる。しかし、だからといって諦めるのはまだ早い。日本の家屋に持ち込んでもその魅力を失わず、しかも不調和を最小限に抑えられるたぐいの洋風の家具がある。英米の家具がそれだ。

英米の家具は、彼らの生活の長い伝統、すなわちオールド・イングリッシュとアーリー・アメリカンという様式に根ざしている。この二つはふしぎと日本人の固有の美学に抵触せず、むしろそれを側面から補強するような性質をもっている。それらは純洋風ではない。なにしろイギリスはヨーロッパの辺境であり、アメリカはさらにそのイギリスの出先のようなものだからで、ロココに代表されるような、いかにもヨーロッパ然とした大時代的な文物とはおのずから別物なのだ。

そこで思い出すのは、アメリカ人であるエドガー・ポーの書いた「家具の哲学」という短文だ。これはおもしろい読物で、ここに説かれている哲学──というほどのものでもないが──を適宜自己流に読み換えてわがものとすれば、日本人として洋風をいかにして取り入れるか、取り入れるべきなのか、が何となく見てくるのである。

ポーは言う、「室内装飾にかけては英国がベストだ」と。ところがアメリカ人であるポーですら、英国風をそのまま受け入れるわけにはいかない。風土というのはそれほど決定的なものなのだ。そこでポーが独自の観点から導き出す、理想的な室内装飾の話にすすむのだが、彼の主張をひとことでいえば、豪華なものや華美なもの、ぎらぎらしたものや贅沢なものや大仰なものは一切排除せよ、ということにつきる。しかしそういいながらも、彼がサンプルとして差し出す室内の描写をみると、われわれはここでもまた彼我の相違に愕然としないわけにはいかない。アメリカと日本との差が、イギリスとアメリカとの差とは比べようもないほど大きいことのみが痛感される。