そゞろごと

noli me legere

偶然即是必然

九鬼周造の「偶然性の問題」を読みながらある考えがずっと頭の中で醗酵していたが、末尾にいたってそれが確信に変った。つまるところ、偶然なんていうものはこの世にはないのだ。すべては必然であり、偶然とは過去へ遡って見たところの必然にほかならない。

九鬼は当然のように偶然を必然の対義語として捉え、それを出発点にしているが、そういう彼もついには「必然の一種としての偶然」に想到せざるをえなかった。私は一歩踏み込んで、必然といい偶然といっても要するに観点の問題であり、そこから見れば偶然も必然も同じであるような精神の一点が存在すると言おう。

宝くじに当るのも必然なら、暴漢に襲われて殺されるのも必然なのである。さらに大きくいえば、宇宙に地球が誕生したのも必然であり、われわれがいまこの星に生きているのも必然なのだ。

すべては因果関係の網の目の中に整然と配置され、そこから逸脱できるものなど存在しない。因果関係の網の目は宇宙の誕生とともに繰り出され、いったん張られた網の目はもはや動かすことはできない。そしてその網の目はいま(現在)も必然性の導きのもとに張りめぐらされつづけているのである。

歴史にifはないといわれるのはこの網の目が動かせないからだが、未来にもifはない。なぜなら必然性に支配された現在にはifがないからだ。未来が現在の時間上の延長であるとすれば、そこには当然ifなんてものは存在しえない。

現在とは何かといえば、時間と空間とを一元化したゼロ点、すなわちそこから過去と未来とへ時間と空間とがそれぞれ逆方向へ延長していく原点である。そしてその一点には偶然などの入り込む余地はない。現在進行中の事象はすべて必然である。

ああすればよかった、こうすればよかった、もしあのときあれがなかったなら……しかしじっさいにはそのときはそうするしかなかったわけで、そうするのが必然だったまでの話である。あとになってからああだこうだと考えても為方がない。

そこで問題になってくるのが自由意志だ。自由意志というものはあるのだろうか。

かつて「エチカ」を読んだとき、この自由意志なるものが完膚なきまでに否定されているのに驚いた。ビュリダンの驢馬は餓死するしかないだろう、とまでいわれては、そんなバカな話があるか、と思ったが、今ではわりあいすんなりとスピノザの説を聞くことができる。

私にいわせれば、ビュリダンの驢馬が餌にありつくのも必然なら、餓死するのも必然であり、もちろんそこには自由意志などというものは関与しえない。自由意志を越えたところで必然に支配されて餌にありついたり、あるいは餓死したりするので、生き延びるかくたばるかは驢馬の知ったことではないのだ。

ディドロに「運命論者ジャックとその主人」という小説(?)があって、私ははじめのほうしか読んでいないが、ジャックが何かというと「そんなことはすでにあの高いところ(神のいるところ)に書かれているのだ」と悟りきったようにいうのが印象的だった。

私もまた神ぬきの運命論者に近づいているのかもしれない。