神秘説と汎神論
いかにも神秘的なものに神秘を感じる、そんなのはごくふつうの感覚であって、とくにあげつらうべきものではない。私の考える神秘家とは、たとえば野に咲いているありふれた花をみてもそこに神の摂理を感じとる人である。一滴の水に全宇宙を観ずる人である。かれにあっては万象が神の顕現なのだ。
ところでこういった見方は、より一般的には汎神論と呼ばれているのではないか。
ことほどさように私のなかでは神秘説と汎神論とがごちゃまぜになっている。しかしこの両者、やっぱり別物としてそれぞれはっきりした立場の相違をもっているのではないだろうか。
そんなことを考えていたら、次の文章が目にとまった。
「神秘主義者は、おそらく、不可視のものを、可視にもたらそうとして、その才能を傾ける。たとえばブレイクの線描。汎神論者は、不可視のものに、それぞれ一体となり、それを生き、それであることを求める。たとえばターナーの晩年の黄に描く自然力の軌跡である」(由良君美、「ディアロゴス演戯」)
ブレイクの神秘説とターナーの汎神論。これをたんなる知識としてではなく、体験としてわがものとすること。
かつては象徴と寓意との違いがよくわからずごっちゃにしていたことがあったが、いまでは両者はほぼ完全に別物として捉えることができる。神秘説と汎神論についてもそのような認識に到達したい。