そゞろごと

noli me legere

偶然性の時間的性格

仕事で遅くなったらもう日記など書く気がしない。日記に限らず何かを書くには心の余裕が必要で、心の余裕は時間の余裕から生れる。そして私の場合、時間の余裕は自由の意識と結びついている。

私の場合、なんてどうでもいいか。しかしまあいちおう書いておくと、自由というのは私にとって何かをしてもいいし、しなくてもいいという状況のことだ。で、たいてい何もしないことのほうが多いのだが、その場合は「~することもできた(が、しなかった)」ということになって、これが自由の帰結なのである。「しなかった」のは「したくてもできなかったからしなかった」のではなくて、「したくなかったからしなかった」のである。これが自由というものではないか。「できなかった」というのは必然的帰結である。これは自由の正反対だ。

つまるところ、自由とは必然の反対、つまり偶然なのである。偶然──九鬼周造は偶然性の問題について、「実存の中核に触れ」るものであるといい、「いつかは何等かの究竟的な形を取らなければ私を休息させない」とまで言っている。

その九鬼の「偶然性の問題」なる本が私の前にある。これを読んでもいいし読まなくてもいい。この状況が私のいう自由。しかし今は時間がなくて読めない、つまり「読んでも読まなくてもいい」という自由を時間の不足が奪っているわけだ。上に書いた「時間の余裕は自由の意識と結びついている」というのは、要するにそういう意味である。