そゞろごと

noli me legere

「金色夜叉」を読んで

本の解説を本文より先に読む人がいるらしいが、私にはちょっと考えられない。どんな本でも「成心なく」読みたいと思うからだ。解説というのは、いうなればスポーツ新聞のようなもので、それを読むことで前日のゲームをいっそう楽しむことができるとしても、主体はあくまでも実際のゲームにある。解説を読んでから本文にとりかかる人は、スポーツ新聞を読んだ後で録画しておいた前日の試合を見ようとする人のようなものだ。そうではないだろうか。

というわけで、今回も巻頭の解説のようなものには目もくれなかったが、ゆうべ貫一の夢の段を読んで一区切りついたところでどう魔がさしたのか、この巻頭論文にちらと目をやったところ、「「金色夜叉」は……六部から成っているが、それを以てなお完結に到らなかったため……」という一文にたちまち出くわしてしまった。ああ、なんということだ、この作品は未完の作であったのか……

それを知るなり急に気分が白けてしまう。貫一が塩原の温泉宿で薄幸の恋人たちを救う話にしろ、哀切をきわめた宮の手紙にしろ、どうも読んでいて興が乗らない。しかも結末は尻切とんぼなのだ。とどのつまり、私にとっての「金色夜叉」は「続篇」までであって、「続続」も「新続」も蛇足以外の何物でもない。たとえそれが新たなる展開を予想させるものであったとしても、である。

こういうことになったのも、不用意に「解説」なんぞを覗いたせいだ、いまさらぶつくさ言っても為方がない。しかしまあこれでいちおう「金色夜叉」はぜんぶ読んだから、今後は大手を振って「解説」を楽しむことができる。まずはにっくき巻頭論文から、次いで鴎外の書評、それからネットに散見する論評や感想など。