そゞろごと

noli me legere

「金色夜叉」から家庭小説へ

「間貫一顔毒落乱にて死す、享年三十二」

そんな文字が目に映る夢を見た。そうか、死んだか、三十二でねえ、と思いつつ、顔毒落乱とはどんな病気なのか、とこれも夢の中で検索(!)する。「金色夜叉」を読んでこんな夢を見、なおかつネットで検索しようというのだから、自分がいかに本とネットに毒されているかがよくわかる。

目がさめてから実際に「顔毒落乱」で検索してみたが、当然ながらそんな病気は存在しない。しかし夢で見たウィキペディア(?)のページには「顔面が崩壊する病」というような説明があって、その患者の写真まで出ていた。写りがわるくてどんな顔なのかよくわからず、あまっさえ上下が逆転していたように記憶している。

まあ私の夢はどうでもいいとして、「金色夜叉」の解説(片岡良一)を読むと、この小説が社会小説としても恋愛小説としても中途半端だと書いてある。確かにそうもいえるなと思いながら鴎外の書評を見ると、高利貸を主人公にしたのは奇抜だと褒めてあって、さらに「此小説の主な顧客たる葡萄茶式部」という文字が出ている。葡萄茶式部とは何か。これは海老茶式部とも書き、昔の女学生をその制服からこう呼んだらしい。なるほどそういえば「魔風恋風」も当時の女学生から絶大なる支持を得たらしいから、この手の小説に「婦女子の紅涙を絞る」というエピセットがつくのも納得できる。

「この手の小説」というのは、広い意味での家庭小説なのだが、この家庭小説というのが今ひとつよくわかっていない。なんとなく「小公子」の延長線上にある物語群のような気がしているが、おそらくこの解釈はまちがっている。幸いにして筑摩書房の「明治家庭小説集」というのを買ってあるから、そのうち読んでみよう。

あと蛇足をつけ加えておくと、貫一はボードレールのいわゆる「われとわが身を罰する者」である。彼は「貪婪きわまる「皮肉(イロニー)」」のせいであんなふうにひねくれてしまったのだ。この場合の「皮肉」とはサディズムを包含したマゾヒズムの謂である。