そゞろごと

noli me legere

為事と日々

荘子の逍遥遊篇に「以天下為事」という言葉があって、「天下を以って事と為す」と読む。意味は「天下のために苦労して勤める」ということらしい。簡単にいえば「国のために働く」ということだが、働く、すなわち仕事をする、ということだから、「為事」と書いて「しごと」と読んでもいいだろう。むしろその方が正しいので、「仕事」は宛字なのである。

というわけで為事と日々、あるいは日々の為事についていえば、私は自分の能力の一割くらいでできる職業についている。これがいいことかわるいことかは知らない。いやしくも男子として生れたからには、一大事業をなして、天下の男といわれたい気持もないわけではなかったが、いろんな事情から規模縮小を余儀なくされて、とうとう社会の底辺を匍いまわる身とは相成った。その程度の自分であり、人生なのである。

最近湯川秀樹の「外的世界と内的世界」という本を興味深く読んだが、この有名な物理学者が文筆家としても優れているのに驚いた。それはポアンカレにも言えることだが、しかし湯川の文章はさらに「真の知識人とは何か」ということについて考えさせるものをもっている。彼の体現している知識人、それは為事と日々において自己の発展の意識と人類の進歩の観念とが表裏一体になっている人である。自己の学問と世界の未来とが同一の方向を向いている人である。そういう観念のない、たんに自足的な人々は、いくら博識でも断じて知識人とは呼ばれない。そして人類の進歩という観念がきわめてアンビギュアスになっている現在、知識人らしい知識人が出てこないのは当然のことなのだ。