そゞろごと

noli me legere

Beauté en laideur, laideur en beauté...

所用で某スポーツクラブを訪れたが、予想とは打って変って、客は男女とも高齢者ばかりである。宣伝のポスターにあるような青年男女の姿はどこにも見えない。それも考えてみれば当り前の話で、平日の昼間からこんなところに出入りできるのは為事をしていない人々にきまっている。定年になって働く必要がなくなったものの、家でくすぶっていても為方ないから、こういうところへやってきて憩いの場を見出しているんだろう。そのこと自体はべつにかまわない。

ところで、私は彼らの姿を見ながら、ある感慨にふけっていた。というのは、風呂場でみる彼らの肉体のあまりの醜さにショックを受けたのである。もう長いこと銭湯へ行っていないので、他人の、それも老人の裸がどんなものか、すっかり忘れていた。もちろんそんなものはふだん脳裡に浮べるはずもない。私の記憶からほぼ完全に抹消されていたそのイメージ群が、白昼にまがつびのごとく現れて、無防備の私に襲いかかったのである。不意打ちをくらった私は目を泳がせながら、なんとかその場をしのいだ。

ボードレールはパリの昼日中に出現した幽霊のような七人の老人を歌っている。そして八人目が現れていたら自分はその場で死んでいただろう、とまで書いている。しかし彼はまだまだ運がよかったのだ、それらの老人たちはいくら醜くても、少なくとも服は着ていただろうから。

そんな話を同僚としていたら、sbiacoさんもそのうちそうなりますよね、と言われて、たしかにそれはそのとおりだと思った。まあいまのところミケランジェロのダビデのような肉体を維持してはいるけれども……

それから私の独断になって、男女ともヌードで見られるのは十二歳までだ、と言ったら、とたんに危険人物扱いされてしまった。べつにネタで話をふったのではなく、じっさいそう思っているのだが、これには同感してくれる人も少なくないだろう。第二次性徴の始った肉体は性的ではあっても美的ではない。なぜかといえば、一世紀前の唯美派の人々が繰り返し言ったように、美は有用性の反対物であるからだ。性的すなわち生殖という有用性に汚染された状態はだんじて美ではないのである。子供の肉体を美的に称揚するゆえんである。

しかしふたたび考えてみると、老人の肉体というのも性的でないことにおいては子供の肉体と変らないのではないか。となると、美のみならず醜もまた有用性の対極に位置するものとして、固有の価値をもつといえるのではないか。そしてその制約の範囲内において、美と醜とは通じ合うものをもっているとはいえないだろうか。

しかしそんなことはすでにシェイクスピアがとうの昔に言っている、「きれいはきたない、きたないはきれい……」