そゞろごと

noli me legere

田口掬汀「女夫波」

「明治家庭小説集」の三つめ。さすがにこんな小説をいまどき読む人は少ないようで、検索しても古書として(つまりオブジェとして)取り扱ったものしかヒットしない。私としてもまともな論評をするつもりはなく、いつもどおりの軽めの感想でお茶を濁そう。

これは前半の、ヒロイン俊子が小姑にこれでもかとばかりに責め苛まれるところが圧巻、というか読んでいてじつに痛々しい。まさに迫害される美徳で、このまま立ち上がるすべもなくむざむざと散ってしまうのか、と思わせる。しかしなんぼなんでもそんな救いのない話であるはずがない。なにしろこの小説は題名に「家 庭 小 説」と角書がついている。最後には晴れやかな大団円が待っているに違いないのだ。

そう、家庭小説の特徴のひとつとして、どんなに悲惨な状況が描かれていても、最後には美徳が、愛が、誠が、勝利を収めるのである。それを予定調和と呼ぶなら呼ぶがいい。古来真に大衆の心を捉える物語はハッピーエンドと相場がきまっている、そしてそれを可能ならしめる前提こそが予定調和なのである。

さて例によって黄眠道人の意見を徴してみるに、駄作凡作で如何な点からも見るに足らず、ただその愛情主義がヤマとカラクリのために受けただけだ、とある。「ヤマとカラクリ」とは何のことかよくわからないが、少なくとも「女夫波」にはとくにいうほどの「ヤマ」も「カラクリ」もない。これはもしかしたら掬汀の代表作「伯爵夫人」に対する評かもしれない。

この小説は地の文だけ読むとまるで講談を聞いているようだ。そしてこの講談調はときとしてある種のポエジーに近づく。たとえば、

「空碧く、風軽く、爽やかに晴れ渡った日であるが、争われぬ季節の表示(しるし)目に著く、地は溥然(しとど)に湿りを含んで、簇立つ墓石卵塔の一つとして露気を帯びぬものはない。今左手(ゆんで)の森蔭を過ぎた汽車が、遠雷の轟きを運んで消えて行った後は、広い境内再び寂莫(ひっそり)と沈み切って物の音一つ聞えない、風一陣颯々(さわさわ)と梢を揉んだ、忽ちはらはらと散り来る落葉の雨、肩を掠めて墓標に零れると、彼方の本堂に幽に読経の声が起る、あゝ凋落の私語(ささやき)! 秋の啓示(さとし)! 老い行く時間(とき)は凋るゝ場所(ところ)に一層(ひとしお)の哀れを添えて、心なき者の目にさえも涙を催さしむる景色である」

といった調子なのである。

筋のおもしろさと行文の巧みさでは幽芳子に一籌を輸するが、何の理想も主張もないただの娯楽小説には勝ること数等だと思った。