そゞろごと

noli me legere

言葉のパラドックス

自分の好きなものについて語れば語るほど、当のそのものの魅力が薄れていく、という体験をしたことがないだろうか。私はある、大いにある。そしてその理由もほぼ分っている。

これは無限定なものを限定しようとするからだ。魅力というのは本来捉えどころのない、茫洋としたものなのだが、それを言葉で語ろうとすると、言葉の性質上、どうしても定義(限定する働き)のほうへ傾く。そしてその限定が的確であればあるほど、つまり残余の部分が少なくなればなるほど、魅力は本来の流動的な姿から、定義された固定的な姿に変貌する。

それは渾沌に穴をあけて目鼻をつけるようなもの。はたせるかな、渾沌は一日に一つづつ穴をあけられて、七日めに死んだとのことだ(「荘子」応帝王篇)。

魅力というのははっきりしないほうが、させないほうが魅力的なのである。

陶淵明のいわゆる「甚解を求めず」も似たような事態を表しているだろう。

でもって、何が言いたいのかというと、「ストレス解消には作文が役立つ」という説の根本にこのことが関係しているのではないか、ということ。

カウンセラーは、「悩んでいることがあるならそれを克明に書いてみなさい。書くことで楽になれますよ」と言う。これは上に書いた「魅力」を「悩み」に変えただけのことではないか。悩みというのも捉えどころのない茫洋としたものだ。それを分析的に記述することで、不定形なものが定形へ、無限定なものが限定されたものへと移行する。こういうプロセスを経ることで悩みが括弧つきの「悩み」へと変化するというのは大いにありうる。

もしかしたら思いきり勘違いをしているかもしれないが、私としてはそのように考えたい。

というわけで、言葉は本質的に限定する働きがあるのだが、一方では限定させない書き方もある。マラルメの詩や散文がそれだ。このことをもってしても、彼が通常の言葉の使い方をしていないことが分るだろう。彼は言葉によって言葉を否定しているのである。