そゞろごと

noli me legere

苦悩山の梨

今日も歯の治療。今回の虫歯は長らく放置していたために治療が長引いている。いつもなら二回の通院で治ってしまうのだが。

歯の治療なんて楽しいわけはないが、それでも何度か通院していると、ベッドに横になって口をカハーと開けて先生に歯をいじくってもらうのが何となく快感になってくる。今回は最初に神経を抜いてしまったので、もうどんなに削られても痛くもなんともない。思う存分ガリガリやってくれ、と思ってしまう。

ところで、医者の使う最新の医療機器を見ていて思うのは、これらも元を正せば拷問用具にほかならないということだ。クリステンセンの「魔女」を見たとき、そこに羅列された拷問用具があまりにも近代的な医療機器に似ているのに衝撃をうけた。医療と拷問。この正反対に思われるものが、じつは共通の根っこをもっていた、というのは私だけの妄想だろうか。

フランソワ・ヴィヨンの詩に「苦悩山の梨(ありのみ)」というのが出てくる。初めてこの字を見たときは何のことか分らなかったが、いまはネットですぐに調べられる。Poire d'angoisse というもの。ヴィヨンは牢獄でこの梨を食わせられたらしい。コンテクストを考えると、とんでもなく苦い梨の実を口からじゃなく尻から食わせやがった、というふうにも読める。これはれっきとした拷問道具なのである。

ポワル・ダンゴワッスを「苦悩山の梨」と訳したのは鈴木信太郎で、おもしろい訳だとは思うが、訳註に「拷問の道具として使用された猿轡の一種を指すとも考えられ……」と書いているところをみると、どうも実際にどんなものだか明確には理解していなかったようだ。しかしおかげで「苦悩山のありのみ」なる珍妙な訳語ができあがったのだから、それはそれでよしとしよう。