高野聖は世界的な名作か?
黄眠道人がその漱石論の中で泉鏡花の「高野聖」に言及して、これがもしフランス語かドイツ語で書かれていたら世界的な古典になっていただろう、というようなことを書いている。うーん、そんなにすごい小説だったか、高野聖。
また同じ論稿中で鏡花の「歌行燈」を傑作と推し、「草迷宮」を愚作と断じている。これもにわかには同意しがたい。
まあ鏡花はあまり好きな作家でないのでどうでもいいが、よくよく考えてみると、高野聖クラスの綺譚(とあえて呼ぶ)はたしかにヨーロッパでも稀かもしれない。ああいうロマンチックなものをああいう文体で書くというのがもう奇蹟的なことのように思われてくる。
「高野聖」の文体は癖があって好き嫌いが分れるだろうけど、「天守物語」とか「照葉狂言」とかはまず文句なしに美しい。そういうところから鏡花にはまっていく人も多いだろう。そしてやがては臭みまでが芳香に感じられるようになるんだろう。
そこで贔屓の引き倒しということが行われる。上に引いた黄眠の評などにもその嫌いがある。
およそ批評家たるもの、贔屓の引き倒しだけはしちゃいけないと思うんだけど、それができないところが人間的な弱さであり、また人間のおもしろさでもあるだろう。