そゞろごと

noli me legere

不条理としての死

萩原朔太郎だったか、旅行好きの人の気が知れない、旅行なんて帰ってから何年かすればくすんだ思い出しか残らないじゃないか、ばかばかしい、というようなことを言っていた。

たしかにそれはそうなんだけど、旅行にかぎらずすべてのことは後になったらたんなる思い出にすぎなくなる。それをいうなら生きること自体がばかばかしい、ということになるだろう。

我々が日々暮すという営為は、未来へ向けてせっせと思い出を作り続けることだ。そしてそれが事実なら、なるべくいい思い出を作りたい、というのは万人に共通した考えではないか。

しかしこの、「日々の行為=未来の思い出」という図式を眺めていると、我々が日々生きていられるのは未来というものを想定しているからだということが分る。明日がない人には今日を生きることもできないのだ。

その「明日」を奪われた人の気持を想像すると頭が変になる。わが上司の死は予想以上に深く私を動かした。

あれほど活力にあふれた人、飛ぶ鳥を落す勢いだった人、その声や表情がいまなお生き生きと私の中に存在している人が、わずか一ヶ月でこの世から消えてなくなってしまった事実を事実として受け取ることができないのだ。人の命とはそれほどあっけないものであろうか。

最後に上司に会ったときのことを考える。入院する一週間ほど前のことだ。ほんの二、三分、用件のみの面会だったが、いつもどおりの彼の姿に何の異常も認めることができなかった。そのときすでに病魔は彼の体を再起不能なまでに蝕み、生の燈はいままさに消えなんとしていたというのに……

いままでいろんな人の死を経験してきたが、これほど「不条理」という言葉が似つかわしい死はない。この不条理に起因する奇妙な時空のねじれにしばらくは身を置くことになるだろう。