そゞろごと

noli me legere

散歩者と遊歩者

ルソーに「孤独な散歩者の夢想」という題の本があるが、孤独な夢想家だから散歩するのか、散歩するから孤独な夢想家になるのか、よくわからないところがある。散歩で有名なのは、あとカントだろうか。彼を孤独な夢想家と呼ぶのは妥当でないかもしれないが、それでも似たような精神的系譜に属する人であることは否めない。

歩くことと思索とに密接な関係があることは、古代ギリシャの逍遥学派が証明している。じっさい座った状態よりも立った状態、立った状態よりも歩いている状態のほうが脳の働きは活発になる。医学的に証明されているかどうかは知らないが、自分の経験からいえばそうだ。

さて、散歩者とは別に遊歩者というのがある。彼らもまた孤独な夢想家ではあるが、そのあり方は違っている。というのも、散歩者が歩きながら自己の内面へ向うのに対し、遊歩者は歩きながら外部へ、環境へと埋没していくからである。

遊歩者についてはここで私が書くよりも、ベンヤミンの文章を引用するほうが分りやすくて手っ取り早い。とはいうものの、私は彼の文章を引用することができないのである。なぜかといえば、彼の文章を読んでいないからだ。まさか読んでいないものを引用することはできないだろう。

ここでベンヤミンの名前を出したのは、そのことによって長らく積読になっている「パサージュ論」を征服したいという気があるからだ。この頭も尻尾もないような本は、そのあり方でまず私を眩惑する。とはいえ眩惑されっぱなしでは話にならないので、とりあえず第三巻「都市の遊歩者」から読むことにしよう。しかし、あくまでも予想だが、ここに書かれていることはすべてすでに私の頭に入っていることばかりではないか、という気がしている。それがいまだ言語化されていない、漠然としたイメージの集積にすぎないものだとしても。