そゞろごと

noli me legere

大手拓次のこと

ヴァン・レルベルグに近い資質をもった日本の詩人となると、大手拓次になるだろうか。頃日戦後の名詩を集めたアンソロジーを読んで、口語自由詩というジャンルではいまだに拓次を超える人はあらわれていないという確信をもった。こと口語自由詩にかぎっていえばこの人は最強である。こういう詩人がいることを日本人は世界に誇ってもいい。

とはいうものの、彼の詩を読んで「どこがいいんだこんなもの」と思う人も少なくないだろう。それはまあ好みの問題だから為方がない。しかしですね、たとえばこんな詩──


名もしらない女よ、
おまへの眼にはやさしい媚がとがつてゐる、
そして その瞳は小魚のやうにはねてゐる、
おまへのやはらかな頬は
ふつくりとして色とにほひの住処、
おまへのからだはすんなりとして
手はいきもののやうにうごめく。
名もしらない女よ、
おまへのわけた髪の毛は
うすぐらく、なやましく、
ゆふべの鐘のねのやうにわたしの心にまつはる。
『ねえおつかさん、
あたし足がかつたるくつてしやうがないわ』
わたしはまだそのこゑをおぼえてゐる。
うつくしい、うつくしい名もしらない女よ。


一見何の変哲もない詩だが、しかしここには有無をいわせぬポエジーの核のようなものが感じられないだろうか。そしてこれしきのポエジーをすら戦後詩は生み出せないでいるのだ。

私が拓次についておもしろく思うのは、彼が都会の遊歩者でもあったことだ。彼の日記は「孤独な遊歩者の夢想」とでも名づけることができるだろう。

黄眠があの浩瀚な「明治大正詩史」の中で拓次にまったく言及していないのがふしぎだが、おそらくその存在を知らなかったのだろう。萩原朔太郎を「幼稚」の一言で切って捨てた黄眠だが、もし拓次を知っていたら、返す刀で彼をも切り捨てることができたかどうか。