そゞろごと

noli me legere

死刑について思うこと

死刑の存廃。むつかしい問題だけど、たとえばリン=チなんていう身の毛もよだつような怖ろしい死刑があっても犯罪者は後を絶たなかったらしいから、抑止力としてはあまり効果はないんじゃないかと思う。死刑がなくなったからといって急に凶悪犯罪がふえるかどうか、それは実際に廃止してみないとわからない。

うむ、実際に廃止してみたらいいんじゃないかな、それでにわかに犯罪が増えたら、また元に戻せばいいだけで。

自分の身内が殺されても死刑廃止でいいのか、という議論には同調できない。自分の身内が惨殺されたら、死刑なんて生ぬるくて話にならないよ。この手で相手をなぶり殺しにしなければ気がすまない。やられたらやりかえす、目には目を、歯には歯を、それが当然であり、自然ではないか。

とはいうものの、犠牲者にもっとも近い人、たとえば遺族にそれをする権利があるかどうかになると疑問がないでもない。なぜなら、目には目を、歯には歯を、を正当に主張できるのは殺された当事者以外にはいないからだ。そして当事者は当然のことながらこの世にはいない、つまりやり返したくてもできないわけで、復讐とか報復とかいうのはあくまでも第三者による代行にすぎないのである。

それに、犯人を目の前に突き出されて、煮るなり焼くなり好きにしろ、といわれたとき、「はいそうですか、それじゃ」と生きた人間を惨殺できるか、となるとまた別の問題が発生する。なにしろたいていの人は他人を傷つけることに慣れていない。動物ですら殺すにしのびない。いくら相手が凶悪犯でも、そうむやみに残虐なことができるとは思えない。目をつぶって一気にとどめをさすのが関の山だろう。

人をなぶり殺しにすることを何とも思わない人と、猫一匹傷つけることができない人とのあいだには埋めることのできない溝がある。両者は同じ土俵の上では戦えないのである。

そこでなんだかんだと理屈がついて、けっきょく処罰は個人ではなく国家が行うことになったのだろう。死刑制度というのは個人が関与できる範囲を超えたところにある、というよりもそんな気の重いことを個人が背負うのはまっぴらだというところから国に任せているというのが現状だろう。

それはともかくとして、ひとついえると思うのは、死刑の廃止と戦争の放棄とが同一線上にあるということ。論理上、権利上そういうことになるはずなのだ。それならば戦争を放棄している今の日本で死刑が行われるのは矛盾ということになる。死刑廃止論の根拠はここからしか出てこないだろう。