そゞろごと

noli me legere

満開の桜を見ながら

寒い日がつづくので今年は桜の咲くのはもっと後かな、と思っていたら、もうすでにあちこちで満開になっている。桜というのは毎年気づかないうちに咲いて、気がつくともう散っている。

人々は桜を見ながら、ただ桜を見ているのではない。そこに個々の人のさまざまな思いが投影されていればこそ桜は桜なので、そうでなければ詩に歌われることもなければ絵に描かれることもないだろう。

私は桜を愛しているだろうか?──アガペチックには然り。しかしエロチックには愛していない。自我を失うまでに桜と一体化した体験は私にはない。

そんなことを考えながら桜を見ていると、どうも桜に疎外されているような気分になってくる。萩原朔太郎に「憂鬱なる花見」という詩がある。私の気持もその詩に近い。

それはそれとして、桜の花の美しいのと比べて「さくら」という言葉の音は美しくありませんな。さくら。なんだかいやな響きだ。「ら」の音が美しさをぶちこわしにしている。

そういえば、京子といえば凛とした女性を思い浮べるけれども、外国人にはおよそ女性の名前とも思えない、おそろしくきつい言葉にきこえるらしい。キョーコ。いわれてみればそんな感じもする。

しょせん言葉の響きや語感なんてものは相対的なものなんだろうね。