そゞろごと

noli me legere

「ドイツ名詩選」のことなど

この前のブログ主の導きで知った岩波文庫の「ドイツ名詩選」。この本のいいところは、日本人による日本人のためのアンソロジーになっているところだと思う。つまるところ日本人の感性にうったえかけるドイツ詩が選ばれているということで、そういう意味ではあまり「ドイツ的」ではないのかもしれないが、しかしどのみちわれわれ一般人のドイツ理解なんて高が知れているので、この程度に薄められたドイツの香をかいで楽しんでいるのが頃合なんじゃないかと思う。

しかしこれは危険な本でもあるな。もうやめようと思っていたドイツ語のほうへ私をぐいぐい引っぱっていくから。じっさいドイツ人もいい詩を書いている、これの深いところまで知る(つまり自分のものにする)には、やっぱりドイツ語をある程度ものにしないといけないんじゃないか、と。……

ここに罷り出でたる鴎外森林太郎。彼のことばに耳を傾けると──

「詩人の読者に望む所は、巻を開いて一篇一首を読んで、さて巻を閉じて貰うことである。前をも顧みて貰わぬ方が好い、後をも見わたして貰わぬ方が好い。詩の植字を疎にして、多く空白を存ずるのは、これがためである。贅沢ではない」(沙羅の木)

うむ、彼の詩に対するスタンスがよくあらわれてますね。こういう心構えだから、彼の詩は創作詩も訳詩もじつにたんたんとしている。このこだわりのなさは、つまるところ彼が詩人ではないことを示している。そう、鴎外はどこまでも詩人ではない。彼は詩人であるにはあまりにも野暮でなさすぎる。

黄眠は鴎外びいきのあまり、彼がもっと創作や訳詩をやっていたらその後の詩壇も変っていたのではなかろうか、といっているが、冗談ではない、それこそ詩心のない、小手先だけのエセ詩人をそれまで以上に輩出させる効果しか生まなかっただろう。文豪鴎外の詩ですらこの程度である、いわんやわがヘボ詩をや、というわけだ。

「沙羅の木」から「水沫集」をふりかえってみたら、この歴史的重要性をもつアンソロジーの見方もずいぶん変ってくるだろう。しかし「前をも顧みて貰わぬ方が好い」という鴎外からすれば、なにをいまさら野暮なことを、ということになるのかもしれない。