そゞろごと

noli me legere

三鳥の存在論

古今伝授の三木三鳥。これらの木や鳥を同定しようと苦心した人も多いようだが、しかしそれらがじっさいには何を指しているかはたいして重要ではないと思う。

私の考えでは、三鳥は雀や目白が存在するように存在しているわけではない。存在の様態が異なるのである。だから極端にいえば同じ鳥、たとえば雀が、あるときは「いなおほせどり」であり、あるときは「よぶこどり」であり、あるときは「ももちどり」であってもかまわないのである。

というのも、いなおほせどりとは、季節の推移をともなう自然のアレゴリーとしての鳥であり、よぶこどりとは音や色彩など感覚の世界一般をあらわす鳥であり、ももちどりとは生と死とをひっくるめた万物流転の相をあらわす鳥であると思われるから。

それぞれの名称は鳥の三態、というよりむしろ鳥に仮託された人間の三つの心情・態度をあらわしている、と考えたほうが実情に近いのではないかと思う。

まあ私がそう思うだけで、なんの根拠もないけれども。