そゞろごと

noli me legere

小説家になりたい望み

Aさんは小説家になるのが夢なんだそうだ。

ふーむ。で、どんな小説を書きたいと思ってるの? ときくと、とくに決めてないという。いろいろ話をきいてみると、どうやら書きたい小説があるわけでもなく、何を書いたらいいのかさっぱり分らないそうだ。極端にいえば、書きたいことは何もないらしい。それでいて小説家になりたいというんだから、もうわけがわからない。

しかしわけがわからないといいながら、じつは少しはAさんの気持もわかるのである。いや、Aさんがどう思っているかは私にはわからない。あくまでも自分に置き換えてみてそうじゃないか、と思う程度のことだが。

ここに一冊の本がある。私はまだそのページを繰ってみないが、それが小説だということだけ分っている。このいまだ開かれざるページのなかに、一人の、あるいは複数の人物があらわれて、そこにだけある世界が展開されるのである。もしかしたらこの本には人の一生がつまっているのかもしれない。いや、人の一生だけでなくて、時代のひとつの断面もとらえられているのかもしれない。つまるところここには著者が創造したひとつの世界がまるごと封じ込められているのだ。その世界は著者がいなければこの世に存在することはできなかったし、また読み手がいなければ本という形態にまとめあげられることもなかっただろう。

私はここで強調しておきたいが、随筆や評論や研究などは、いわば他人の世界にあるものをもってきて、そこに自分なりの解釈を下したものにすぎない。ひとつの世界の創造どころか、他人の世界に寄生しているようなものだ。たしかにそういったものは世界(複数)の風通しをよくするかもしれないが、みずからひとつの別乾坤たることはできないのである。そこで展開される世界は、だれのものでもない、いいかえれば万人のものであるところの、この世界の延長にすぎない。

たとえばエッセイストがある話を書く。われわれはそれをおもしろく読む。ところが、そのエッセイがまるきり事実に基づいていなかったら、つまり著者のでっちあげたものにすぎなかったら、興味のほとんどは殺がれてしまうのではないか。100パーセント事実にのっとっている必要はない、しかしエッセイというものは、事実から離れれれば離れるほど、つまりわれわれの住むこの世界から遊離すればするほど、そのリアリティを失ってしまうように思う。エッセイのリアリティを保証しているのはあくまでも現実のリアリティなのである。

そう考えてくると、小説家(に限らず広く創作家)の書くものの異様さがはっきり分ると思う。彼らの書くものには現実のリアリティなどまったく関係がない。どんな嘘八百を並べてもかまわないのである。ただしその嘘八百があくまでも小説のリアリティを損なわない範囲でのことだが。

読者のほうも、それが嘘であるとわかりながら、しかも進んでその嘘にだまされようというのだから、小説家の書くものの次元が他のもの書きのそれとまったく異なるところにあることは容易に理解できるだろう。彼らの世界がいかに自律的であり、個人的であり、自閉的であるか、しかもそれが本という形をとることで、読者のすべてに開かれた世界でもあるということ、つまり読者もその世界に参入することができるというのは、いずれにしても驚くべきことだと思うのである。

みずから一箇の造物主となって新しい世界を創造すること、そして読者を獲得することにより、その世界に二次的な存在理由を付加すること、これは小説家(並びに創作家)にのみ許された特権であると思われるのだが、どうだろう。

Aさんの場合も、そういう考えが漠然とあって、それで小説家になりたいと思っているんじゃないかと思う。