そゞろごと

noli me legere

由良君美の本

この前ちくま文庫で「みみずく偏書記」が出たので、このまま他の著作も文庫化されるのかな、と思っていたら、今度は平凡社ライブラリーで「椿説 泰西浪曼派文学 談義」が出た。かつて青土社から出た一連の著作のうち、真に傑作と呼べるのはこの本だけだ。

そういっても、この私の判断は若いころのものなので、まったく新規にこの本を読む若い人にとって、はたしてほんとにおもしろい本なのかどうか、それはちと保証しかねる。自分が子供のころに見て感銘をうけたマンガやアニメをいまもってきて、これおもしろいから見ろ、といっても、今の人にはおそらくピンとこないだろう。いや、当の私自身、いったいなんでこんなものに熱中したのか、と訝ってしまうようなものが少なくないのだ、往年のマンガやアニメには。

というわけで、あえてお勧めはしないけれども……

ドールスにおけるバロックのごとく、ホッケにおけるマニエリスムのごとく、由良君美ロマン主義をもって文化史上の常数とする。彼にとってはロマンチックか否かということが事象を評価する際のクライテリオンになっているのだ。一種の汎ロマンチック主義。

しかし今になってみれば、彼らが如意棒のごとく振りかざす「○○主義」が、いずれも「病者の光学」にほかならないことが痛感される。目のわるい人がかける特別製の色眼鏡。そんなものは糞くらえだ、私は別の道をゆく。

といっても、別の道を辿っているつもりで、じつは由良の切り拓いた道から一歩も外れていない、といった事態も十分に考えられるのである。それほどに彼の扱う領域は広大である、というよりむしろ、彼の言説は私の精神の深部に食い入ってしまっている。

これからも私は由良の呪縛から解き放たれることはないだろう。そういう「宿命の書」の一冊として、この「椿説 泰西浪曼派文学 談義」は昔も今も私を魅了してやまないのである。