そゞろごと

noli me legere

人形の形而上学

そういえば前に人形について何か書いたな、と思って検索してみたが、どうも当該記事は削除してしまったようで、読むことができなくなっている。

ただ、ある人がブックマークしてくれていたおかげで、その一部(冒頭)だけがかろうじてウェブ上に残っていた。それはこういうもの。

「人形という言葉にはどこか神秘感がついてまわる。人形をテーマにした物語のたぐいも少なくない。それだけわれわれの好奇心をそそってやまないものが人形にあるからだろう。しかしそこに纏わりついているさまざまな付随的属性をすべて引っ剥がしてみれば、人形とは要するに人のかたちをしたオブジェにすぎない。どれほど精巧に、また美しく作られていようと、それは究極的には「物質」以上の何物でもない。これはどういうことかといえば、人が人形に抱く神秘感のすべては、それを見る人の心に由来するということだ。ある人形...」

ここで途切れている。さてそのあとどうふくらましたか。自分で書いておいて無責任のようだが、その内容がまったく思い出せないのである。たいしたことが書かれていたわけではないのは、削除対象になったことからもわかるのだが……

なんでこんな過去ログをあさろうという気になったかといえば、この前ヤフオクでアンチック・ドールを手に入れて、そのあまりのすばらしさに、人形に対するこれまでの考えが大きく変ってしまったからだ。このショックを文章化するにはまだだいぶ時間がかかりそうだが、上に引用した拙文のうち、「人が人形に抱く神秘感のすべては、それを見る人の心に由来する」というのははっきりいってまちがい、とはいえないまでも、少なくとも重大な修正を加える必要がある。というのも、よくできた人形はたんなるオブジェではなくて、それ自体が「生きている」からだ。

人形は無機物と有機物とのあいだの幻想の領域に棲息している。換言すれば、唯物論と唯心論とが未分化だった状態(もしくは再統合された状態)へとわれわれを連れ戻してくれるのが人形の機能なのである。

ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」には「哲学小説」という副題がついていた。人形と形而上学とが結びつくのは、ある種の感受性の持主には必然的なのかもしれない。