そゞろごと

noli me legere

非デカルト的省察

Une seule poupée m'a sauvé de la vie infernale.

とまずでたらめフランス語で呟いておいて──

「われ思う、ゆえにわれ在り」という定式をもって近代哲学の鼻祖となったデカルト。しかしこういう考え方は、古今東西、ある種の人々にとっては自明のことだった。ある種の人々とは、通常の生の流れからいったん外へ出て、反省的に自己の生を眺めえた人々のことだ。つまりここで「思う」というのは、今日の晩ごはんは何にしようかとか、明日はどんな服を着て出かけるか、とかそんなことではなくて、世界の中に自分が存在していることを自覚することなのである。その意識から時間が生れ、空間が生れた。人間が人間になったときに、すでに「われ思う、ゆえにわれ在り」という意識は生れていたのである。

この意識をもっと正確にいえば、「われ在りとわれ思う、ゆえにわれ在り」となるだろう。しかしこれでもまだ十分ではない。もっと正確にいえば、「「われ在りとわれ思う、ゆえにわれ在り」とわれ思う、ゆえにわれ在り」となるだろう。この思考は際限なく繰り返し括弧のなかに入れることができる。ここに無限の意識が生れる。

時間、空間、無限、そういったものについて「考える」ことが人間を真に「在る」ものにしているのだ。そしてこれは、デカルトの定式をまたずして、人類に普遍的な考え方だと思う。

この考え方を敷衍すれば、思う(存在について考える)もののみが存在する、ということになるだろう。つまり反省意識をもたないものは存在しない、ということで、この考え方だと動物や植物は存在しないも同様になってくる。恐竜はたしかに何億年にもわたって地上に覇を唱えた。しかしかれらは反省意識をもたずに生きたために、その生はこの世に何の痕跡も残すことなく(骨だけは化石になったが)消えてしまった。あんなにでかい図体をしながら、その生は、存在論的にいえば人体における細胞レベルの生滅くらいの意味しかもたないのである。

そう考えてくれば、デカルトが動物を機械とみなしたのも納得できるし、また「われ」の存在証明から神の存在を導き出したのも納得できる。人間が動物にくらべて一次元高いところにいるとすれば、人間より一次元高い何者かの存在を表象するのは自然の理ではないだろうか。

というわけで、存在論は人間の意識のすみずみにまで行きわたっている。人間にとっては生殖行為ですら存在論的な儀式なのである。