そゞろごと

noli me legere

形而上詩人、谷川俊太郎

谷川俊太郎の詩を読んでいると、どうでもいいような想念が頭に浮んでくる。たとえば──

もし彼が俊太郎という名前でなくて慎太郎だったら、はたしてあのような詩人になっていただろうか。

同様に、石原慎太郎がもし俊太郎という名前だったら、あのような政治家になっていただろうか。

Shintaro と Shuntaro。じつにわずかな違いである。しかしこのわずかな違いが徐々にその振幅を広げていって、長い一生ののちには非常な差異となってあらわれる可能性もないわけではない。少なくとも谷川俊太郎的な世界観においてはそうだ。

もし谷川が慎太郎という名前で、やはり詩人になっていたとして、彼の書く詩は谷川俊太郎の書く詩と同じだっただろうか。私にはどうしてもそうは思えないのだ。少なくとも彼の詩を読んでいるかぎりでは。

こういうどうでもいいことを考えさせる点において、彼は英国十七世紀のバロック詩人とは別の意味で形而上詩人と呼ぶにふさわしい。