地下鉄のザジを地下鉄で読む
まあ地下鉄の中で読まないまでも、こういうものを家で机に向って読むのはどうかと思う。書を棄てずに町へ出て読むべき本だ。ちょっとがやがやした喫茶店の中ででも──
作者のクノーはこの本について、「あっちへ行っては引き返し、こっちへ行っては引き返し、迷路みたいに入り組んでいます、まるで地下鉄の線路ですよ」と語っている。
もし地下鉄がこの小説の構造の暗喩ならば、たとえ迷路のように入り組んでいても、出口はいたるところにある。もちろん入口も。だから作者としては際限なく書き続けられるだろうし、どんな終り方をしても差し支えない。そういうところからくる風通しのよさがこの小説の魅力だ。
ザジに似た女の子を他に求めるとすれば、ニコニコ動画から生れた護法少女ソワカちゃんがそれではないだろうか。
ところでこの小説、ほとんどが会話で成り立っているんだが、鉄砲玉のように繰り出される言葉の奔流にしかるべき日本語をあてはめた訳者の苦労は相当なものだったろう。なにしろ俗語(アルゴ)というやつは外国人にはわかりにくい。そのわかりにくさはプレシオジテすれすれにまでいっている。
訳者はボーシュやサンドリー、それにハラップの俗語辞典を総動員して訳出にあたったらしいが、そう思ってみると、一見なにげなくみえる翻訳もにわかにありがたみが増す。
日本で出たフランス俗語辞典としては田辺貞之助のものがある。これは私にはあまりぴんとこないもので、長いこと積読になっている。どうも期待の水準に達しない憾みがあるのだ。
ところでこの辞書で causer を引いてみると、《Tu causes, tu causes, c'est tout ce que tu sais faire.》という例文が出ている。おお、これは「ザジ」の中で鸚鵡の<緑>のしゃべるセリフそのままではないか。「お前はペラペラしゃべるよりほかに能がない」と説明が出ている。生田耕作の訳では「喋れ、喋れ、それだけ取り柄さ」となっている。
《Tu causes, tu causes...》これぞまさしく「ザジ」の全体を総括したセリフであろう。
あと、余談ながら、生田は田辺の辞書をわりあい高く評価している。