そゞろごと

noli me legere

仏訳「たけくらべ」

ヒグチ・イチヨーの「だれがいちばん大きい?」読了。最初のほうはまるでコクトーの「怖るべき子供たち」みたいで、日本人の餓鬼もなかなかやりおるわい、と思いながら読んでいた。しかしミドリとかサンゴローとかシンニョとかいう表記の味気なさには参った。こういう場合の名前は完全に識別のための記号であって、いかなる具体性も帯びてはいない。そこへゆくと、美登利、三五郎、信如という漢字表記の豊かさはどうだろう、その人物の顔や姿まで目に浮ぶようではないか。

それにしてもローマ字表記された日本人の女の名前を見て、外国人はどんな感じをもつのだろう、オロクとかキイとか書かれては日本人の私ですら奇異な印象を抱いてしまう。

もうひとつ私が感じていたのは、会話がひどくぞんざいなことだ。ぞんざいというか乱暴な感じで、読んでいて心が寒々としてくる。外国人の耳にはこういうのはふつうに聞えるのだろうか。じつになんというか、言葉が鋭角をなして心に突き刺さってくるような感じなのである。

例をあげてみよう、第十二章の終りあたり。

「もしこれがいつものミドリなら、困っている信如に指をつき出して、みごとなまでに愚弄するだろう、《ああ、ああ、なんて情けない人かしら》、そして口をついて出るままに、ありとあらゆる悪罵を浴びせかけるだろう、《お祭の晩、あんたはショータローへの腹いせに、私たちの目の前で大騒ぎの種をまいて、何の関係もないサンゴローを殴らせたんだ。そしてあんたは高みで胡坐をかいて、事の成行きを思うがままに操っていたんだ。これに一言でもいいわけができて? なにか言い分があって? あのごろつきのチョーキチに私を蓮っ葉呼ばわりさせたのも、あんたの差し金だったんだ。蓮っ葉! それから? 私はあんたに何も借りなんかないわ。私には父さんも母さんもいるし、ダイコク=ヤのお得意も、それに姉さんだっている。あんたみたいな見栄っ張りの小坊主にだれが頼みごとなんかするもんですか、ぜったいに、死んでもしやしないわ、だから私はあんたに蓮っ葉呼ばわりされるいわれはないの。もし何か言いたいことがあるんなら、蔭でこそこそ言うんじゃなくて、面と向って言ったらどうなの、私は逃げも隠れもしないわ。どう、これでも何か口答えができて?》、そして彼の袖をとって、顔色なからしむるまでに滔々とまくしたてるだろう」

原文はこのとおり。

平常(つね)の美登利ならば信如が難儀の体を指さして、あれあれ彼(あ)の意久地なしと笑うて笑うて笑い抜いて、言いたいままの悪(にく)まれ口、よくもお祭りの夜は正太さんに仇をするとて私たちが遊びの邪魔をさせ、罪も無い三ちゃんを擲(たた)かせて、お前は高見で采配を振ってお出でなされたの、さあ謝罪(あやまり)なさんすか、何とで御座んす、私の事を女郎女郎と長吉づらに言わせるのもお前の指図、女郎でも宜いでは無いか、塵一本お前さんが世話には成らぬ、私には父(とと)さんもあり母(かか)さんもあり、大黒屋の旦那も姉(あね)さんもある、お前のような腥(なまぐさ)のお世話には能うならぬほどに、余計な女郎呼わり置いて貰いましょ、言う事があるならば陰のくすくすならで此処でお言いなされ、お相手には何時でも成って見せまする、さあ何とで御座んす、と袂を捉らえて捲しかくる勢い、さこそは当り難うもあるべきを……」

なんというか、ぜんぜん調子が違いますな。まあでも全体的にみて仏訳者はよくやっていると思う。いまどきの若い人にはこっちのほうが分りやすいかもしれない。