そゞろごと

noli me legere

拓次と黄眠

原子朗氏のすばらしい拓次論を読み終える。400ページ近いがまったく長さを感じさせない。むしろ短すぎるくらいだ。この調子で永遠にやってくれ、と思ってしまう。

拓次の詩を「エキゾチックな装いをこらした、本質的には呪文」であると断じる原氏の目に狂いはない。そしてこの呪文という言葉から、私は拓次の晩年の傑作「薔薇の散策」を黄眠のやはり後期の傑作「咒文の周囲」と並べてみたい誘惑にかられる。

黄眠がその「明治大正詩史」に拓次の名前を出していないのは、おそらくその存在を知らなかったからだろう、と思っていたが、朔太郎の手紙によると、黄眠は拓次の詩をよんで「感激し」「驚いていました」とのことである。なのにどうして拓次を論じなかったのか。それはいまもって謎なのだが、いっぽうの拓次はといえば、黄眠の詩を「十八世紀の情緒」と一蹴しているそうだ。

いずれにせよこの資質においてはきわめて近く、スタイルの点では正反対の二人の詩人が、その詩的生涯の最後に相似た境地にたどりついているのを見るのは興味深い。

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本書(「定本大手拓次研究」)では白秋と朔太郎によって作られた「伝説」を脱色する試みがなされているが、しかし拓次の場合、その伝説化や脱伝説化は作品の鑑賞においてほとんど何の影響するところもない。それだけ作品が自立しているということで、一見ひよわにみえる彼の詩がいかにしなやかな強靭さをもっているかがわかる。

彼ほど鬼才という言葉が似つかわしい詩人はいない。