そゞろごと

noli me legere

脳の性能

パソコンを使っている人なら一日何度かは見かけるグーグルのロゴ。しかし色鉛筆であのロゴを描けといわれて、はたして何人の人が正しく色を塗ることができるだろうか。

よほど注意深く見ている人でないかぎり無理ではないかと思うが、どうだろう。

しかし、である。結論からいうと、ほとんどの人はその色を間違えずに脳にインプットしているのだ。ただそれが思い出せない(表象できない)だけのことなのである。

その証拠に、たとえばふだんとは違った色で描かれたロゴをみたら、たいていの人は違和感をおぼえるはずだ。

そんなことを考えたのは、今朝がたみた夢のせいである。夢にグーグルのロゴが出てきて、その色があまりに鮮明だったので、「あれ、こんな色だっけ」とつよく印象づけられたまま目がさめ、半信半疑でパソコンを覗いてみると、たしかに夢でみたとおりの色だったのに驚いた。

脳とはここまで正確に事物を記憶するものなのか、とちょっとした感動すらおぼえた。

ふだんは意識していなくても、脳はとてつもなく多くの情報を蓄積している。問題は、そこから意識的に取り出せる情報がきわめてかぎられていることだ。

この意識の領域をもう少し拡張できたら……そう、ほんのちょっとでいいのだ、それだけで周囲の世界は一変するだろう。これまでぼんやりしていたことが、おどろくべき鮮明さで目に映ってくるだろう。……

オカルティズムの源流のひとつはここにあるんじゃないか、と思った次第である。

現代の日本に生れてよかったか

最近ときどき考えるんだけど、基本的には「よかった」と思う。

それにはいろいろと理由があるんだが、そのうち少し変ったのをあげてみると、現代の日本からはさまざまなものの「終り」がよく見えるから、というのがある。

この百年間にいろんなものが「終って」きた。なかでも私にいちばん興味があるのは芸術の終りだ。

こうもみごとに終ってしまった文化的産物もないんじゃないかな。アルス(芸)の系譜は現代にいたって芸術からお笑いへと変化した。かつては舞台俳優を意味したコメディアンという言葉は、いまではお笑い芸人を指して使われる。

あまりにもすばらしいバルトークの旋律、しかしそれは全曲中にただ一回だけあらわれて、二度とは繰り返されない。

いっぽう、現代では八小節ばかりの陳腐な旋律がかぎりなく反復されて一曲を構成している。

音楽のこの質的変化はまさに芸術の解体の見本ではないか。

この芸術の解体作業は、現代の日本という場所からいちばんよく見えるんじゃないか、という意味でも、現代の日本に生れてきてよかったと思うのである。

落としどころ

ある人のブログを見ていたらこの言葉がでてきた。落としどころ。最近よく耳にする言葉だ。正確な意味は知らないけれども、なんとなく言わんとすることはわかる。それはやっぱり現代日本に生きている日本人だから、いやでもある程度は分ってしまう。

この言葉と私の中で対になっているのが「落とし込む」という表現。これもまあなんとなくわかる。そしてこれらと微妙に関連しているのが「案件」なる言葉だ。

案件、落とし込む、落としどころ。私はジジイなのではっきりいうが、こんな言葉は大嫌いで、自分ではぜったいに使わない。言葉に対しては異常なくらい保守的なのである。またそうでなければジジイとしてのアイデンティティがぐらついてしまう。

若者がこういう言葉にとびついて濫用するのはまあ為方ないとして、なにも年寄りが若者の真似をしてこんな妙ちきりんな言葉を使わなくてもいいじゃないか。

それでふと思い出したのは高山翁だ。あの人なら「予定調和」と書いて「おとしどころ」とルビをふるくらいのことはしかねない。本気でやっているのかジョークなのか分らないところがあの人の魅力なんだな、と改めて思う。

閉ざされた庭

フォーレの歌曲集「閉ざされた庭」は、本来なら「仄かなる幻(アントルヴィジオン)」と名づけられるべきものだった。しかし彼はそうしなかった。なぜか。それは彼がこの「閉ざされた庭」という言葉に、自己の歌曲のもつ属性の一面を見たからに違いない。彼は「アントルヴィジオン」という総体から、「閉ざされた庭」という一局面を切り取ったのである。

では閉ざされた庭とは何か。それは端的に天国=楽園のメタファーなのである。

ウィキペディアその他によれば、楽園(paradise)という言葉そのものが、ある閉ざされた空間(それは庭の場合もあり、王国の場合もあり、また時によっては動物園の場合もある)をあらわす古い東邦の言葉(アヴェスター語)の pairi daēza に由来するらしい。楽園は古代の人々にとっては、茫漠とした天空ではなく、あくまでもこの世と地続きの閉鎖的な空間としてイメージされていたのである。

そしてその次にくるのが旧約聖書の「雅歌」の記述(第四章)。

あゝなんぢ美はしきかな
わが佳耦(とも)よ
……
わが妹わがはなよめよ
なんぢは閉たる園
閉たる水源(みなもと)
封じたる泉水(いづみ)のごとし

この一連の比喩はそのまま聖母マリアのメタファーとして後世に伝えられることになる。

この楽園と処女性との象徴である「閉ざされた庭」を「女の王国(Feminie)」という観点から歌い出したのがシャルル・ヴァン・レルベルグで、それを音楽的にあらわしたのがフォーレの歌曲集なのである。

フォーレの歌に耳を傾けていると、天上的ではない地上的な楽園のイメージがいっぱいに広がってくる。そこに見られるのは天使や神々ではなくて、暖かい太陽であり、野に咲く花であり、やさしい少女の笑顔である。

シルヴィア・プラスの詩

シルヴィア・プラスは顔でだいぶ得をしているし、その壮絶な最期は人々の注目を集めるに足る。それではその詩はどうかというと、じつに魅力的であると同時にひどく難解でもある。

詩において魅力的と難解とは両立する、それどころかある意味では両者は比例関係にある。「一度や二度読んでわかるようならそれは詩じゃない」と鈴木信太郎はいった。詩とはおよそそんなものだ。

とはいうものの、現代人は忙しい。ぱっと読んですぐ理解できないものにそんなに時間をかけているわけにはいかないのだ。

すぐさま享受されない、享楽されない、ということは、読んでもらえない、ということに結びつく。詩人とは、逆説的にいえば読まれないために書く人々のことだ。

この宿命こそ、ヴェルレーヌがモーディ(呪われた)という言葉であらわした当のものではないか。詩人は真正の詩人であるかぎり、読み手を考慮の外に置くしかない。他人の理解を峻拒したところで行われる、伝達を度外視した言語行為。詩人が呪われた存在であるゆえんだ。

そこでシルヴィア・プラスだが、彼女もまた「呪われた詩人」としての資格をじゅうぶんにもっているように思う。彼女もまた死んで初めて花実が咲くタイプの人間だった。

彼女は容易に人を寄せつけない。彼女の詩が「こっち来んな」というメッセージそのものである。ところがそんな彼女の手はといえば、こちらへ向って大きく開かれているのだ。これはマグダラのマリアを前にしたイエスのポーズ、「私に触れるな」といいながら手をさしのべるイエスのポーズではないか。

陶淵明は「甚解を求めず」といった。わたしはこれに「迅解を求めず」を付け加えよう。詩においては捷径すなわち迂路なのである。

ナイチンゲールとウグイス

ナイチンゲールを和訳して「夜鶯」とするのはいい。しかしこれを「よるうぐいす」と読むのはどうか。たんに語感の問題かもしれないが、私はこれを「やおう」と音読みしたい。しいて和語に翻したいのなら、「夜啼鶯(よなきうぐいす)」とすればいい。

いずれにしてもナイチンゲールとウグイスとはまったく別の鳥で、鳴き声を愛でられるところを除いたら似たところはほとんどない。しかもその鳴き声すら似ているとはいえないのだ。

さて古来西洋の詩人に愛されてきたナイチンゲールだが、その鳴き声を耳にした日本人はあまりいなかったように思う。いまでこそネットその他でいくらでも聴くことができるが、明治大正の昔に、たとえばキーツの詩を愛読した人々の耳にはナイチンゲールの声はウグイスの声として脳内で再生されていたのではないか。

私だってご多分にもれない。ナイチンゲールのじっさいの鳴き声を聴いたのはごく最近のことなのだから。それまでは、たとえばドビュッシーの「ひそやかに」の冒頭のピアノ伴奏によってなんとなくナイチンゲールの鳴き声を推し量るほかなかった。

ちなみにナイチンゲールの英語での鳴き声は jug-jug である。

次にあげるのはマリオ・ベッティーニという人のオノマトペ詩。

Quitó, quitó, quitó, quitó,
quitó, quitó, quitó, quitó,
zízízízízízízízí
quoror tiú zquá pipiquè.

クィトークィトークィトークィトー
クィトークィトークィトークィトー
チチチチチチチチ
クォロルチウーツクァーピピクェー

最後の一行に苦心のあとがしのばれますな。

シナの黄鳥、西洋のナイチンゲール、日本のウグイス。この三つの鳥は微妙に同一視されながら詩的 AVIFAUNA をかたちづくっている。

B型の研究

インフォシーク、サービス終了か。本でいえば絶版のようなものだな。

絶版本なら図書館で読めるが、消えてしまったウェブサイトはどうやって読めばいいのか。インターネットアーカイヴ? しかしこれもいまひとつ使い方がわからなかった。

というわけで消えてしまったサイトから、キャッシュを抜き出してみた。


「B型によるB型の研究」

1. 全ての物事は一瞬にして好き・嫌い・どーでもいいに分類される。
2. おだてに弱いがお世辞はムカつく。 (ビミョー)
3. 変なこだわりがあってどうしても譲れない事がある。
4. 熱しやすく冷めにくいが突然終了する。
5. 突飛な行動をしている自分が好きだ。
6. 団体行動に馴染まない。
7. 強制されると自動的に反発モードに入る。
8. 孤高を楽しむ反面、一人だと寂しい。
9. 最初は寡黙だが慣れると毒舌が始まる。
10. 世間が自分からずれている時が度々ある。
11. 人から相談されるが人に相談しない。
12. 凹むこともあるが自分を信じている。
13. 変人と言われると嬉しくなったりする。

(注)本文中に矛盾は存在しないのがB型なのです。
タイプB連絡協議会 (B型を研究するB型の会)

     *  *  *

初めてこれを目にしたときは驚いた。まるで自分のことが書いてある。私は自分を特別な人間と思いたがる悪い癖があるが、こうしてみると典型的なB型の、何の変哲もない人間であることがよくわかる。