そゞろごと

noli me legere

シルヴィア・プラスの詩

シルヴィア・プラスは顔でだいぶ得をしているし、その壮絶な最期は人々の注目を集めるに足る。それではその詩はどうかというと、じつに魅力的であると同時にひどく難解でもある。

詩において魅力的と難解とは両立する、それどころかある意味では両者は比例関係にある。「一度や二度読んでわかるようならそれは詩じゃない」と鈴木信太郎はいった。詩とはおよそそんなものだ。

とはいうものの、現代人は忙しい。ぱっと読んですぐ理解できないものにそんなに時間をかけているわけにはいかないのだ。

すぐさま享受されない、享楽されない、ということは、読んでもらえない、ということに結びつく。詩人とは、逆説的にいえば読まれないために書く人々のことだ。

この宿命こそ、ヴェルレーヌがモーディ(呪われた)という言葉であらわした当のものではないか。詩人は真正の詩人であるかぎり、読み手を考慮の外に置くしかない。他人の理解を峻拒したところで行われる、伝達を度外視した言語行為。詩人が呪われた存在であるゆえんだ。

そこでシルヴィア・プラスだが、彼女もまた「呪われた詩人」としての資格をじゅうぶんにもっているように思う。彼女もまた死んで初めて花実が咲くタイプの人間だった。

彼女は容易に人を寄せつけない。彼女の詩が「こっち来んな」というメッセージそのものである。ところがそんな彼女の手はといえば、こちらへ向って大きく開かれているのだ。これはマグダラのマリアを前にしたイエスのポーズ、「私に触れるな」といいながら手をさしのべるイエスのポーズではないか。

陶淵明は「甚解を求めず」といった。わたしはこれに「迅解を求めず」を付け加えよう。詩においては捷径すなわち迂路なのである。