そゞろごと

noli me legere

ベルギー象徴派

去年の暮れにシャルル・ヴァン・レルベルクの「瞥見(仄かなる幻)」(Entrevisions)を手に入れてざっと読んでみたが、これはすばらしい詩集、万人におすすめというわけにはいかないが、私のツボをピンポイントで突いてくる詩集だ。こんな詩人がいたとはね。

象徴派といえばマラルメだが、しかしこの短命に終った文学運動は、フランス本国よりもむしろベルギーで純乎たる発展をとげたのではないか、という気がする。いうところのベルギー象徴主義である。もともと象徴主義には周辺的なところがあって、けっして時代思潮の中心にはなりえないものだったから、それがフランスという伝統文化の強固なところではなく、その周囲の地域においていっそう本来の持ち味を発揮したのは偶然ではないのかもしれない。このあたりはホーフシュテッターの本に詳しいようだから、そのうちまとめて読んでみよう。

ホーフシュテッターの意見では、象徴主義という一過性の文学運動はその後映画の領域において生き延びたということになる。この意見には私も賛成せざるをえないが、しかし映画も1960年以降になるともはやそこに象徴主義の痕跡を見出すのはむつかしい。商業主義と折り合わない要素があまりにも多いからだ。しかし、やはり映画らしい映画(というと語弊があるが)には象徴的な表現は不可欠なのではないか。

まあそれはそれとしてレルベルグについていえば、うちにある本の中にも彼に関する記述がいくつか散見する。まず厨川白村が「ヴァン・レルベルグについて」という短文を書いている。おそらく日本で初めてレルベルグを紹介した文ではないだろうか。白村はこの短文で彼の詩をいくつか和訳しているが、どうも彼の麗筆をもってしてもレルベルグの詩はうまく日本語にならないようだ。マラルメとはべつの意味で訳しにくい詩人だといえるだろう。

それと、フランス世紀末叢書の雑多な短篇をあつめた巻に、彼の「超自然の選択」の訳があった。この訳ではなぜかprinceが「王」と訳されていて、それもかなり年配の王様のようである。やはりこれは「王子」のほうがよかったのではないかと思うが、どんなものだろう。

あと書いておくべきは、レルベルグの詩にフォーレが曲をつけたものがあること。「イヴの歌」「鎖された庭」がそれだ。後期フォーレの歌曲はちょっととっつきにくくて敬遠していたが、本腰を入れて聴いてみればやはりすばらしいものである。そういうことに気づかされたのもよかった。

ちなみに、ダニエル・ブランパンという人が編纂した「ベルギー象徴派」という本によれば、この派をなす文学者はマックス・エルスカンプ、モーリス・メーテルリンク、アルベール・モッケル、ジョルジュ・ローデンバッハ、シャルル・ヴァン・レルベルグ、エミール・ヴェラーレンの六人だけのようだ。それ以外に画家を勘定に入れても、じつに小ぢんまりとしたグループからなっていたということがわかる。