そゞろごと

noli me legere

日本文学のフランス語訳

ふと思い立って明治大正文学の仏訳本を何冊か買った。森有正の訳した芥川の「羅生門」、エリザベス・スエツグ(末次?)の訳した漱石の「永日小品」、アンドレ・ジェモンの訳した一葉の「たけくらべ」だが、羅生門はいいとして、漱石のは「春の小話」、一葉のは「だれがいちばん大きい?」という題になっている。本文はそれぞれ特色があっておもしろい。ぱらぱらと拾い読みしただけだが、芥川はまるでモーパッサンのようだ。漱石は……だれとも似ていない、あるいはあらゆる人に似ている。一葉はいちばん小説らしい文体だ。

現代日本文学、たとえば大江健三郎とか村上春樹とかの外国語訳は、おそらくそれほど原文(つまり日本語)で読むのと変りはないと思う。同時代的であるというのも理由のひとつだし、あと彼らの日本語は欧米語の影響を受けた、いわば混血児のような日本語なので、それだけ国際的にはニュートラルな文章になっているように思う。

それに比べて昔の日本文学は、欧米の影響をうけたといってもまだまだ伝統的な日本語に忠実だったので、そのことが個々の作品に消しがたいメイド・イン・ジャパンの刻印を捺している。その特徴を一言でいえば、広義の縁語によって次々に新しい概念を生み出し、それらを順に繋いでいく文体である。感覚的にいえばどこまでも水平に流れていくような文体。そういうさらさらと淀みのない行文が伝統的な日本の文章で、またそれがよしとされた。

そういう文章を欧米語で表現しなおしたらどうなるか、それが私の興味の的なのである。

上にあげた三つの作品のうち、いちばん伝統的な日本語に忠実なのはもちろん一葉のものである。といっても、それは源氏物語枕草子ほどには純乎たるものではない。明治以後の、江戸時代の戯作その他を通過した上での、広い意味での現代文なのである。しかしこの現代文は、その様式の面からいえばいちおうの完成に達している。そしてその描き出す情緒や文物は、日本でもすでに失われて久しいものだ。そういうものを外国人がどう読んで、どう理解するのか、それもまた私の興味をひく。

というわけで、とりあえず一葉の「たけくらべ」から読んでみたい。幸いにして(?)これは大昔に一度読んだだけで、内容はほとんど覚えていないので、いまの私にはまったく未読の書と変らない。そういう立場で、自分が日本人であることを括弧に入れて、あたかも欧米人が未知なる文化のものを読むように読んでみたいと思う。

もちろん日本人である以上、それは厳密にはむつかしいことだとは思うが……