そゞろごと

noli me legere

夢について

すばらしい夢をみたとき、だれしもこれを他人に伝えたい衝動にかられる。ところが、である。夢は原則的に他人には伝えられないのだ。夢というものは眠りという形式のなかでしか生きられない。眠りからさめたとき、夢は死ぬのである。

しかし夢を近似的にもせよ伝えたいというのはある種の人々には固定観念になっていて、古来多くの試みがなされたきた。

まず模倣という手段がある。これは写生といってもいい。夢のなかの情景を、できるだけ忠実に絵や文章で写し取るのだ。しかしこれは熱心にやればやるほど夢のもつリアリティから逸れてゆく。嘘だと思ったら自分でやってみるといい。できあがった絵なり文なりは、夢の残骸のようなものにしかならないだろう。

しかし優れた芸術家がこれを行うとき、できあがったもの(夢そのものではけっしてない)が別の次元で芸術としてのリアリティを獲得することはある。例としてはコールリッジの詩やマーチンの絵など。

もうひとつの手段は象徴を使うもの。これは模倣をはじめから放棄している。克明な描写を重ねれば重ねるほど夢の実質から遠ざかるとすれば、その方面での努力は意味をなさないからだ。そのかわりに象徴的な手法をもちいて夢のリアリティを喚起するのである。描写ではなくて喚起を。その極致は音楽に見出されるだろう。

夢を再現するにはこの両者によるほかないと思われるが、まれにみる天才だけがそのどちらにもよらずに夢を記述することに成功している。その天才とは、たとえばカフカのような人だ。彼の文は模倣でもなければ象徴でもない。にもかかわらず、それらは夢の表現として完足的なものになっている。

カフカはいったいどうやってこんな手法を身につけたのか。それはいまもって謎なのだが、ひとついえることは、夢というものが現実とかけはなれたロマンチックなものではないこと。現実という基盤を失えば夢もまた崩壊する。ロマン派の現実を遊離した誇張的な表現には夢のリアリティはかえって稀薄だ。それとは逆に、カフカのなんの衒いもない、ほとんど事務的といってもいい文章のなかに、夢はそのみずみずしさをふたたび獲得するのである。

     *  *  *

今朝みた夢があまりにコールリッジの「クーブラ・カーン」に似ていたのでこれを読み直してみたら、夢の再現という点では意外につまらなくてがっかりしたのでこんな文を書いてみた。