そゞろごと

noli me legere

善なるもの一なるもの

辰野隆いわく、よきフランス人はよき日本人に似ている、と。しかしよきフランス人はよきアメリカ人にも似ているだろうし、よきインド人にも、よきイヌイットにも似ているだろう。つまり善人は世界各国どこでも善人なんだと思う。ことさらにいうべきことではないし、それだから善人はまったく目立たないのだ。

いっぽう悪人はどうか。これは千差万別、ひとくちに悪人といってもいろんな人がいる。例をあげればきりがないから以下略。

善が一なるものを志向するとすれば、悪は多様性のうちに拡散する。聖書に出てくる悪魔は「わが名はレギオン」といった。つまり無数のものの混成体である、ということだ。

このレギオンなるものが中国各地でわらわらと発生しているようだ。彼らは革命を志向しているのだろうか。革命を起さんとならばその身にデモンをもたざるべからず、とバクーニンはいった。血に渇するのはだんじて神々ではなく、複数形におかれた悪魔(demons)なのである。

中国の情勢、まだこの先どうなるかわからないが、もし万一革命が成功したとすれば、きっかけを作ってくれた日本よありがとう、と彼らはいうだろうか? それはまずないと思うが、もし失敗したら、こんなことになったのは日本のせいだ、ととがめだてる可能性はおおいにある。

ネットオークションの魔

三連休をすべて為事でつぶされるという憂き目にあう。いや、まあ代休をとる権利を与えてくれてありがとう、と思いたいんだが、この三日はとんでもなく体力を奪われた。慣れない為事がこれほど心身にこたえるものだとは思わなかった。それだけ老化がすすんでいるというしるしか。

こういうときには魔がさしやすい。自分でも「いったいぜんたいどう魔がさして」としか思えないのだが、ヤフオクなんぞに手を出してしまう。その間の心理的かけひきを現象学的に記述してみようか、と思ったがやめた。どうせつまんない結果に終ることはわかりきっているから。

この絶対的な無気力状態を脱するためにはどうしたらいい? エンブレム・ブックの蒐集でもはじめますか。

この蒐集という情熱に私は昔から興味をもっているんだが、自分でなにかを蒐集したことは一度もない。なぜなら蒐集には持続と拡張とが不可欠だが、そのための資質をふたつながら欠いている私にはどだいできるはずもないのだ。

持続と拡張との前提になっているのは、「明日自分が死ぬことはない」というなんの根拠もない思い込みである。自分の生がどこまでも続いていくという確信の上にのみ持続と拡張とはありうる。この確信が蒐集のためには不可欠だ。明日をもしれない身で、どうしてものを集めたりできるだろうか。

逆説的にいえば、人はものを集めることで自分の未来を無期限に延長しているともいえる。

私が蒐集家たちを畏敬のまなざしで見つめながら、同時にまるで綱渡りを見ているかのような不安な気持になるのはそのためだ。

まあそれはそれとして、今回のオークションでは首尾よく(?)落札できた。何を買ったかは現物をみてから書こうと思う。前に似たような商品を落札して、届いたものがあまりにひどくてがっかりしたことがあるから。

もしかしたら届いてからがっかりするかもしれないものをなんで高値を出してまで買うのか。そこにもオークションの魔はひそんでいるように思う。

由良君美の本

この前ちくま文庫で「みみずく偏書記」が出たので、このまま他の著作も文庫化されるのかな、と思っていたら、今度は平凡社ライブラリーで「椿説 泰西浪曼派文学 談義」が出た。かつて青土社から出た一連の著作のうち、真に傑作と呼べるのはこの本だけだ。

そういっても、この私の判断は若いころのものなので、まったく新規にこの本を読む若い人にとって、はたしてほんとにおもしろい本なのかどうか、それはちと保証しかねる。自分が子供のころに見て感銘をうけたマンガやアニメをいまもってきて、これおもしろいから見ろ、といっても、今の人にはおそらくピンとこないだろう。いや、当の私自身、いったいなんでこんなものに熱中したのか、と訝ってしまうようなものが少なくないのだ、往年のマンガやアニメには。

というわけで、あえてお勧めはしないけれども……

ドールスにおけるバロックのごとく、ホッケにおけるマニエリスムのごとく、由良君美ロマン主義をもって文化史上の常数とする。彼にとってはロマンチックか否かということが事象を評価する際のクライテリオンになっているのだ。一種の汎ロマンチック主義。

しかし今になってみれば、彼らが如意棒のごとく振りかざす「○○主義」が、いずれも「病者の光学」にほかならないことが痛感される。目のわるい人がかける特別製の色眼鏡。そんなものは糞くらえだ、私は別の道をゆく。

といっても、別の道を辿っているつもりで、じつは由良の切り拓いた道から一歩も外れていない、といった事態も十分に考えられるのである。それほどに彼の扱う領域は広大である、というよりむしろ、彼の言説は私の精神の深部に食い入ってしまっている。

これからも私は由良の呪縛から解き放たれることはないだろう。そういう「宿命の書」の一冊として、この「椿説 泰西浪曼派文学 談義」は昔も今も私を魅了してやまないのである。

小説家になりたい望み

Aさんは小説家になるのが夢なんだそうだ。

ふーむ。で、どんな小説を書きたいと思ってるの? ときくと、とくに決めてないという。いろいろ話をきいてみると、どうやら書きたい小説があるわけでもなく、何を書いたらいいのかさっぱり分らないそうだ。極端にいえば、書きたいことは何もないらしい。それでいて小説家になりたいというんだから、もうわけがわからない。

しかしわけがわからないといいながら、じつは少しはAさんの気持もわかるのである。いや、Aさんがどう思っているかは私にはわからない。あくまでも自分に置き換えてみてそうじゃないか、と思う程度のことだが。

ここに一冊の本がある。私はまだそのページを繰ってみないが、それが小説だということだけ分っている。このいまだ開かれざるページのなかに、一人の、あるいは複数の人物があらわれて、そこにだけある世界が展開されるのである。もしかしたらこの本には人の一生がつまっているのかもしれない。いや、人の一生だけでなくて、時代のひとつの断面もとらえられているのかもしれない。つまるところここには著者が創造したひとつの世界がまるごと封じ込められているのだ。その世界は著者がいなければこの世に存在することはできなかったし、また読み手がいなければ本という形態にまとめあげられることもなかっただろう。

私はここで強調しておきたいが、随筆や評論や研究などは、いわば他人の世界にあるものをもってきて、そこに自分なりの解釈を下したものにすぎない。ひとつの世界の創造どころか、他人の世界に寄生しているようなものだ。たしかにそういったものは世界(複数)の風通しをよくするかもしれないが、みずからひとつの別乾坤たることはできないのである。そこで展開される世界は、だれのものでもない、いいかえれば万人のものであるところの、この世界の延長にすぎない。

たとえばエッセイストがある話を書く。われわれはそれをおもしろく読む。ところが、そのエッセイがまるきり事実に基づいていなかったら、つまり著者のでっちあげたものにすぎなかったら、興味のほとんどは殺がれてしまうのではないか。100パーセント事実にのっとっている必要はない、しかしエッセイというものは、事実から離れれれば離れるほど、つまりわれわれの住むこの世界から遊離すればするほど、そのリアリティを失ってしまうように思う。エッセイのリアリティを保証しているのはあくまでも現実のリアリティなのである。

そう考えてくると、小説家(に限らず広く創作家)の書くものの異様さがはっきり分ると思う。彼らの書くものには現実のリアリティなどまったく関係がない。どんな嘘八百を並べてもかまわないのである。ただしその嘘八百があくまでも小説のリアリティを損なわない範囲でのことだが。

読者のほうも、それが嘘であるとわかりながら、しかも進んでその嘘にだまされようというのだから、小説家の書くものの次元が他のもの書きのそれとまったく異なるところにあることは容易に理解できるだろう。彼らの世界がいかに自律的であり、個人的であり、自閉的であるか、しかもそれが本という形をとることで、読者のすべてに開かれた世界でもあるということ、つまり読者もその世界に参入することができるというのは、いずれにしても驚くべきことだと思うのである。

みずから一箇の造物主となって新しい世界を創造すること、そして読者を獲得することにより、その世界に二次的な存在理由を付加すること、これは小説家(並びに創作家)にのみ許された特権であると思われるのだが、どうだろう。

Aさんの場合も、そういう考えが漠然とあって、それで小説家になりたいと思っているんじゃないかと思う。

いそしぎからイソシギへ

ある人のブログでイソシギなる鳥を初めて見る。なるほど、これがあの鳥か……

いそしぎ、というのは私には非常に懐かしい言葉だ。映画の題で知ったのが最初だが、そのときは意味もわからず、「やすらぎ」とか「せせらぎ」とかと似たような造りの言葉だと思っていた。映画も見ていないのに、いや見ていないからなおさら、いそしぎという言葉だけが独立して強く印象づけられたんだと思う。いまでも「いそしぎ」ときくと、なんともいえない郷愁に似た情緒に胸はあやしく躍るのである。

私の脳内の辞書には、「いそしぎ=サウダージの一種」みたいな定義がおぼろげに記されている。

こういう印象がさらに強まったのは、「いそしぎのテーマ」(原題:the shadow of your smile)のせいもあると思う。これがジャズのスタンダードでもあることを知ったのはずっと後年のことだが、この曲はやはりジャズよりもムード音楽に向いている。というより、曲調がムード音楽そのものであるように思うのだが、どうか。

いそしぎが磯にいる鷸のことらしい、と知ったのはさらに後年のことだが、そのときは長年この言葉に抱いていた幻想がいっぺんでさめてしまったのを思い出す。いそしぎ=磯鷸。ああ、なんたる幻滅!

しかし事実を知ったあとも、上に書いたように、いそしぎという言葉に対する私の愛着は変らない。ひらがなで書かれた「いそしぎ」は、鳥の一種などではなく、私の脳内にだけあるサムシングに対応した言葉なんだと勝手に了簡している。

鳥のほうはイソシギあるいは磯鷸で。

教養主義

教養主義という近代日本独自の思想(?)があって、私などはそれに無関心ではいられない最後の世代かもしれないが、これはもしかしたら過去の一時期に出現した特殊な理念なんかではなくて、あらゆる時代のあらゆる潮流を貫いて持続するひとつの「常数」ではないかと思うようになった。

ここでその経緯を述べるつもりはないけれども、教養主義のひとつの特徴として、「明日は今日よりもよい」という楽天的な考え方があるように思う。よりよい明日をめざして今日を生きること、そしてその日々の積み重ねを無限に延長した先にある未来を信じること。

この点において、教養主義の理念は資本主義の論理と結びつきやすいのだが、それは私の関心事ではない。ただこの未来を信じるということ、極端にいえば「明日」を信じることは、「今日」の犠牲の上に成り立つものでは断じてない、という点だけを強調しておきたい。よりよい明日のために今日を犠牲にするのではなく、今日一日の成果がそのまま明日に結びつくという思考。

それを裏返していえば、今日を生きられない人には明日はない、ということになる。言われてみればそのとおりなのだが、このように教養主義には、アリとキリギリスの話が寓話として成立しないような地平に身をおくことを求めるラディカリズムがある。そしてこの面からみるかぎりにおいて、教養主義は過去のものではなくて、古今の歴史を貫く常数になりうるのではないか、と思っている。

精神のロンド

勤務時間の変動や社内のごたごたですっかり自分というものを見失っていたが、ここへきてようやっと本来の自分のあり方を取り戻すことができた。本来の自分のあり方、すなわち心と、精神と、魂と、肉体との中心がそれぞれぴったりと重なっている、ということである。この中心がずれるといろんな面で支障をきたすようになる。

ところで、心と精神と魂、と三つにわけて書いたのは、ふつうに精神といわれるものにも微妙に差異があることに最近気づいたからで、それぞれ英語の mind, spirit, soul に該当すると思ってもらえればいい。英語で書いたらよけいに分りにくくなるかもしれないが、じつは自分でもこの三つを正確に分析・定義することはできない。ただこの三つが三位一体のペルソナのように人間の内面を形作っているのではないか、と思うばかりだ。

三位一体、すなわち父と子と聖霊については卓抜な比喩がある。それは父を蝋燭、子を鏡、聖霊を蝋燭から発せられた光ととらえるもの。だれが言ったのか知らないが、じつに美しいイメージだと思う。(参照。ボロヴズィック「修道女の悶え」)

同様に、光というものを媒介として、心と精神と魂とが互いに調和しながらロンドを踊っているような状態が人間の精神生活においてはもっとも望ましい状態に違いない。


世界中で一番に美しいものは、
どれもみんな円いもの。
(シャルル・ヴァン・レルベルグ)