そゞろごと

noli me legere

物欲の秋

物欲とは何か、と考えていると、これが不可解なものにみえてくる。というのも、こんなものは生存のために何の役にも立ちはしない。食欲や性欲とはまったく異なったものだ。じっさいこれは人間に特有な欲望であって、動物にはたえて見られない。しかも、である。この物欲なるものは、右も左もわからない幼児の段階ですでに高度の発達をとげているのだ。物欲の対象はつねになんらかのオブジェ、物体である。そして幼児の場合にはおもちゃがこれに該当する。おもちゃが欲しくて泣き叫ぶ幼児のうちに、物欲はすでに動かしがたいものとして厳然と存在しているのだ。

この幼児に物欲が生じる時期は、フロイトが肛門期と名づけたものと一致しているように思う。フロイトの命名法もいいかげんなもので、今ではあまり信用のおけないものとみなされているようだが、この肛門期という発想ならびに命名は絶妙だ。物欲と肛門との出会いなどという奇妙なものは、ロートレアモン伯爵でも考えつかなかっただろう。

食欲の後、性欲の前に物欲の段階をもうけることで、人間性が動物性から決定的に切り離された、とみなすことはできないだろうか。

もっともフロイトがそのへんの考察を行っているかどうか、それは知らないけれども……

まあそれはそれとして、物欲の秋にふさわしいものといえば、各種のネット・オークションがあげられる。これはほんとにおもしろくて、気になる物件(というのか?)をいくつもお気に入りに登録しておいて、その成行きをにやにやしながら眺めている。いまのところ傍観者の立場にとどまっているが、ときには激しく物欲を刺戟されることもある。といっても、そういうのはたいてい手が出せないくらい高い場合が多いのだが。

海外のオークションは日本のものと比べてわりあい穏当なのが多いようだが、送料がばかにならない。たとえば20ドルで落札したものの送料が200ドルかかる場合だってある。こんなに送料がかかるんじゃパスするしかないな、と思うのは貧乏人根性というものだろうか。

いずれは私も一線を越えてしまうかもしれない。欲しいものはどうあっても欲しいのだから。しかし私のように欲しいものが欲しいときに手に入らなかった人間には、物欲に対するさめた目がつねに存在する。それに所有と占有との違いという視座もある。人間が真に所有することができるのは、観念とお金しかない、という考えも──

所有と占有との相違についてはシュティルネルの本(「唯一者とその所有」)が参考になる。物欲という見地からグリーンブラットの「驚異と占有」を読むのもおもしろいかもしれない。

中国という国名

石原慎太郎は中国をシナと呼んでいるそうだ。彼によれば、中国とは日本の西の方の地方をさす。これと似たようなことを呉智英もいっていた。彼らはまるで中国は中国にあらず、という詭弁を弄しているかのようだ。

じつは私も中国といえばせいぜい中華民国以来の、つまり20世紀に入ってからの呼称であろうと考えて、それまでの長い歴史をもつあの国の総称としては支那(すなわちチャイナ)がいちばん適当なのではないかと思っていた。だって中国というと、中華民国あるいは中華人民共和国の略称のように見えませんか?

ところが、である。荘子を読んでいると、ところどころに「中国」という字が出てきて、「なかつくに」すなわち自国をさすのに使われている。私はこれを見て、中国というのが20世紀になってからできた略称なんかではなくて、紀元前からすでに使われている由緒正しい(?)言葉だということを知った。

もちろん現今の中国と、荘子時代の中国とでは、語は同じでも指す内容がちがう。しかしその違いは、石原氏や呉氏がいうような「中国は中国にあらず」といった詭弁的認識の外にある。中国という言葉は日本の西の地方をさすのみではないのだ。

とはいっても、私はやっぱり支那(シナ)という言葉が好きですね、字のかたちも、その響きも。

形而上詩人、谷川俊太郎

谷川俊太郎の詩を読んでいると、どうでもいいような想念が頭に浮んでくる。たとえば──

もし彼が俊太郎という名前でなくて慎太郎だったら、はたしてあのような詩人になっていただろうか。

同様に、石原慎太郎がもし俊太郎という名前だったら、あのような政治家になっていただろうか。

Shintaro と Shuntaro。じつにわずかな違いである。しかしこのわずかな違いが徐々にその振幅を広げていって、長い一生ののちには非常な差異となってあらわれる可能性もないわけではない。少なくとも谷川俊太郎的な世界観においてはそうだ。

もし谷川が慎太郎という名前で、やはり詩人になっていたとして、彼の書く詩は谷川俊太郎の書く詩と同じだっただろうか。私にはどうしてもそうは思えないのだ。少なくとも彼の詩を読んでいるかぎりでは。

こういうどうでもいいことを考えさせる点において、彼は英国十七世紀のバロック詩人とは別の意味で形而上詩人と呼ぶにふさわしい。

ジョディ・フォスター対アナ・トレント

──理想のロリータ女優はだれですか?
──「ミツバチのささやき」のアナ・トレントです。異論は認めません。
──僕は「タクシードライバー」のジョディ・フォスターが一番だと思いますね。
──えええ!? あんなの思いきりやらせじゃないですか。
──そうかもしれないけど、アナの無垢さはちょっとロリータというには遠いですね。
──どのみちアナを越える少女子役はいません。あの瞳には心底参りました。
──まあ、子役としてアナが優れているのは僕も認めますよ。でも、ロリータかといえば、違うといわざるをえませんね。

そんな会話をかわしたのは二十年ほども前のことだ。その話がどんな結論に落ち着いたか、それはもう忘れてしまった。いずれにしても、それ以来、「ミツバチのささやき」のアナを絶賛する人には何人もお目にかかったが、「タクシードライバー」のジョディを褒める人はまずいなかった。しかし、じっさいのところどうなんだろう、それぞれに魅力はあるだろうけど、ロリータ女優という見地でどっちが上か、もう一度映画を見直して検討してみてもいいと思っている。

まあそれはそれとして、きょう道で信号待ちをしていたら、横手から乳母車(ベビーカーというのか)を押してくる若い男がいる。ふと中を覗いてみると、寝ていた幼女がぱちりと目をさました。その目! 私はたちまちアナの目を思い出した。濡れたような、大きな黒目がちの目で、あんなに無垢で、無邪気で、しかも威厳のある目をした子が日本にもいるのかと思うとちょっと嬉しくなった。

しかし今その子の顔を思い出そうとしても、目に浮んでくるのは林檎を差し出すアナの顔ばかりなのはどうしたことだろう?

非デカルト的省察

Une seule poupée m'a sauvé de la vie infernale.

とまずでたらめフランス語で呟いておいて──

「われ思う、ゆえにわれ在り」という定式をもって近代哲学の鼻祖となったデカルト。しかしこういう考え方は、古今東西、ある種の人々にとっては自明のことだった。ある種の人々とは、通常の生の流れからいったん外へ出て、反省的に自己の生を眺めえた人々のことだ。つまりここで「思う」というのは、今日の晩ごはんは何にしようかとか、明日はどんな服を着て出かけるか、とかそんなことではなくて、世界の中に自分が存在していることを自覚することなのである。その意識から時間が生れ、空間が生れた。人間が人間になったときに、すでに「われ思う、ゆえにわれ在り」という意識は生れていたのである。

この意識をもっと正確にいえば、「われ在りとわれ思う、ゆえにわれ在り」となるだろう。しかしこれでもまだ十分ではない。もっと正確にいえば、「「われ在りとわれ思う、ゆえにわれ在り」とわれ思う、ゆえにわれ在り」となるだろう。この思考は際限なく繰り返し括弧のなかに入れることができる。ここに無限の意識が生れる。

時間、空間、無限、そういったものについて「考える」ことが人間を真に「在る」ものにしているのだ。そしてこれは、デカルトの定式をまたずして、人類に普遍的な考え方だと思う。

この考え方を敷衍すれば、思う(存在について考える)もののみが存在する、ということになるだろう。つまり反省意識をもたないものは存在しない、ということで、この考え方だと動物や植物は存在しないも同様になってくる。恐竜はたしかに何億年にもわたって地上に覇を唱えた。しかしかれらは反省意識をもたずに生きたために、その生はこの世に何の痕跡も残すことなく(骨だけは化石になったが)消えてしまった。あんなにでかい図体をしながら、その生は、存在論的にいえば人体における細胞レベルの生滅くらいの意味しかもたないのである。

そう考えてくれば、デカルトが動物を機械とみなしたのも納得できるし、また「われ」の存在証明から神の存在を導き出したのも納得できる。人間が動物にくらべて一次元高いところにいるとすれば、人間より一次元高い何者かの存在を表象するのは自然の理ではないだろうか。

というわけで、存在論は人間の意識のすみずみにまで行きわたっている。人間にとっては生殖行為ですら存在論的な儀式なのである。

稲垣足穂とクトゥルー神話

足穂が昭和7年(1932年)に「新青年」に発表した「電気の敵」という小説(?)にはかなり鮮明にラヴクラフト色が出ているように思う。といっても、当時の足穂がアメリカからパルプマガジンを取り寄せて読んでいた、などというトンデモ発言をするつもりはない。ただ両者の関心が、ある領域において重なり合うものをもっていたのではないか、ということを示唆したいだけである。

「電気の敵」の内容をざっと述べれば──

   *  *  *

まず「地球全体にわたる気温の前代未聞の昇騰ぶり」が語られる。そのせいで植物は巨大化し、さらには天体にまで異象が拡大する。いまのところ太陽と月は大丈夫のようだが、「これらとて、はたしてどこまで信用されたものか、と思っていたら今晩だ。だしぬけに月がやられた!」

見れば月が真夜中の太陽のように火花を散らして欠けていき、その下の海の水平線はいちじるしく間近に眺められた。その光景は「堪えがたい荒涼感をともなった、しかし魂を魅する鮮明と立体感とをかねそなえたもの」である。「私」は父に「電気の配線に故障が生じたようだから調べてくれ」と頼まれる。

じつは月が異変を起す前、「私」は奇妙な為方で二人の旧友に会っている。梯子をかけなければ登れないような高い窓に、二人の友人が次々に現われたのである。「窓に、窓に!」

二人はいずれも白衣をきて、そのうち一人はひどくやつれていた。もう一人は父に挨拶してくるといって出て行ったのだが……

電気の異常を電気配給所へ知らせに行くため、「私」は自転車を出そうとする。とたんに背後から何者かに組み付かれる。それは妹だった。妹は素っ裸だった。性的に挑もうとするかのような妹の動きにてこずっていると、その有様をポーチから凝視している者がいた。父である。みれば父も素っ裸である。「私」は妹ともみあっているうちに不覚にも勃起してしまう。これではならじと妹を突き飛ばして自転車に乗ったが、気がつけば自分も一糸まとわぬ裸体になっているではないか。

いつのまにか月から発する火花はまわりの建物にも飛び火して、あちこちで火花が散っている。あたりにはもうもうと煙がたって、おびただしい群衆が乱交にふけっている。いずれも知らない顔ばかりで、みな先刻あらわれた友人のような白衣をきている。

坂をのぼって広場に出ると、すでに明け方になっている。「私」はほっとしながらも、妙な胸騒ぎを抑えきれない。それもそのはず、朝明けとみえたのは「云い知れぬ妖麗な色に輝いた彩雲」の層の反映であった。そして水平線上に「何か途方もない巨きな亡霊じみたもの」が姿をあらわす。

ここにいたって「私」は、この天変地異が地球規模のものであったことを知る。その元凶はなにか。「火星軍の襲来? いやいやそんな生易しいものでない。そんなたぐいを収容する時間及び空間を絶した、全然別箇の世界からやってくる何者かなのだ」

いまやあたり一面に火花が散り、「名状すべからざる臭気」がたちこめる。阿鼻叫喚に陥る人々の群。言い知れぬ圧迫を感じながら、「私」ははたと気づく。過去のすべてのできごとは、いまこの一瞬にひき起された幻影にすぎないのではないか。そしてこの異変も、すでにわれわれがよく承知していて、したがって年久しく待望していたところのものではなかったか、と。

「先刻の窓からの来訪者、また四辺を埋める奇異な群衆がすでに久しい以前墓の下に去っていた人々であったことに思い当っていた私は、水平線上に増加しつつある襲来者は──なお時計の針が順調に進みつつあるものならば──その長短二本が上方に重ならぬうちに、すなわち午前十一時とおぼしき時刻にはここに到達するであろう、ということが明らかに判っていた」

   *  *  *

読めばわかるように、これは夢をもとにした話で、その夢の熱度(強度?)が私にはひどくラヴクラフト的に思われるのだが、どうか?

人形の形而上学

そういえば前に人形について何か書いたな、と思って検索してみたが、どうも当該記事は削除してしまったようで、読むことができなくなっている。

ただ、ある人がブックマークしてくれていたおかげで、その一部(冒頭)だけがかろうじてウェブ上に残っていた。それはこういうもの。

「人形という言葉にはどこか神秘感がついてまわる。人形をテーマにした物語のたぐいも少なくない。それだけわれわれの好奇心をそそってやまないものが人形にあるからだろう。しかしそこに纏わりついているさまざまな付随的属性をすべて引っ剥がしてみれば、人形とは要するに人のかたちをしたオブジェにすぎない。どれほど精巧に、また美しく作られていようと、それは究極的には「物質」以上の何物でもない。これはどういうことかといえば、人が人形に抱く神秘感のすべては、それを見る人の心に由来するということだ。ある人形...」

ここで途切れている。さてそのあとどうふくらましたか。自分で書いておいて無責任のようだが、その内容がまったく思い出せないのである。たいしたことが書かれていたわけではないのは、削除対象になったことからもわかるのだが……

なんでこんな過去ログをあさろうという気になったかといえば、この前ヤフオクでアンチック・ドールを手に入れて、そのあまりのすばらしさに、人形に対するこれまでの考えが大きく変ってしまったからだ。このショックを文章化するにはまだだいぶ時間がかかりそうだが、上に引用した拙文のうち、「人が人形に抱く神秘感のすべては、それを見る人の心に由来する」というのははっきりいってまちがい、とはいえないまでも、少なくとも重大な修正を加える必要がある。というのも、よくできた人形はたんなるオブジェではなくて、それ自体が「生きている」からだ。

人形は無機物と有機物とのあいだの幻想の領域に棲息している。換言すれば、唯物論と唯心論とが未分化だった状態(もしくは再統合された状態)へとわれわれを連れ戻してくれるのが人形の機能なのである。

ヴィリエ・ド・リラダンの「未来のイヴ」には「哲学小説」という副題がついていた。人形と形而上学とが結びつくのは、ある種の感受性の持主には必然的なのかもしれない。